おれの名前はドミニク・レイトマイヤー。ゲームファンの間では“Black^”の名で通っている。プロのDota2の選手として、すでに10年以上活動している。おれは6つのメジャー地域のうち、(今のところ)CISを除いた5つの地域でプレーした経験がある。おそらくそんな選手はおれだけだろう。

 周知の通り、おれの最後の所属先はT1だった。チームには短い期間しか在籍しなかったし、それはおよそ成功とは言い難かったが、チームにはプレーする機会を与えてもらって感謝している。

 これまで何回もチームをやめてきた。正直に言って、そのたびに寂しさや後悔が残った。

 なぜT1をやめたのかというと、あそこではなんとなく収まりが悪かったからだ。それはプレイヤーというより、おれという人間が合わなかったんだと思う。

 ただの責任逃れだと非難する人もいるだろうが、おれはここ一週間、自分のキャリアを振り返ってみて、ここに至るまでの出来事を思い起こした結果、T1を去るということが正しい選択だったのだと感じた。

 おれが何を言っているかわからない人のために、まずは2013年から振り返ろうと思う。

7年前

 2013年の8月、おれはマウススポーツの一員として二度目の『ザ・インターナショナル』に出場した。グループステージは4勝10敗の大乱調で、結局ルーザーズ・ブラケット
1回戦でLGD.intに敗れた。

 ところがTIが終わると、そのLGDがロスターに加わらないかと誘ってくれた。有頂天になったよ。中国文化は常に尊重してきたし、彼らがどれだけ一所懸命に働き、練習しているのかを知っていた。おれは二つ返事でオファーを引き受けた。

 しかし、そこで人生を変える大きな出来事が起きた。

 中国にいくという決断を下したすぐあと、親父が癌で亡くなった。打ちのめされたよ。テレビゲームを教えてくれたのは親父だったし、最も尊敬する人物だった。親父と過ごした最後の数日間で話したことは忘れられない。親父は「ドミニク、学校に戻って勉強するんだ。これまで学んだことが無駄になってしまう」

 御覧の通り、おれは親父の言葉には耳を貸さず、自分の夢を追いかけた。Dotaに打ち込むことで、親父を失った悲しみを紛らわすこともできた。親父は決して諦めないこと、負けてもそのたびに立ち上がることを教えてくれた。だから、いつでもそうやって生きようと努めてきたよ。

 今思えば、おれは親父の言葉を重荷に感じることもあったが、今ではそれがモチベーションであり、重荷なんかではなかったと思うようになった。

 今でもおれにとって最大のモチベーションは、親父に誇りに思ってもらうことであり、俺の決断が間違っていなかったことを証明することなんだ。

 ところが親父が死んでしばらくたったある日、具合が悪くなって病院に駆け込むと、「非ホジキンリンパ腫」と診断された。つまり癌だ。おれはこの病気について秘密にし、母にも兄弟にも教えなかった。すでに親父の死でつらい思いをしていたから、さらにつらい思いをさせたくなかったんだ。医者には骨髄移植をしないと、1年程度しか生きられないと診断された。

 幸運なことに、ドナーがみつかった。キャンプやトーナメントに出場するために世界中を飛び回っていたため、俺は闘病していることをなんとか家族に隠し通すことができた。手術は成功し、完全に回復することができた。病気の間は、常に親父の言葉を思い出していた。つまり決して諦めないということ。いつでも全力で生きるということ。親父のことを思い出し、彼の教えを頭に思い浮かべることで、おれはつらい時期を乗り切ることができた。

 中国でおれは多くを学ぶことができた。Dotaだけじゃなく、自分自身がどんな人間か学ぶことができたんだ。これまで歩んできた道のりと、中国での経験が相まって、おれはよりよい人間になろうと思うことができた。

 チームの成績はよくなったけど、国際的なキャリアに向けた第一歩を踏み出すことができた。チームはシーズン終了後に解散してしまったが、おれはそのまま中国に残り、成長して学ぶ機会を求めることにした。

6年前

 2014年は飛躍の年となった。中国で数カ月間、一人で過ごしていたあと、チーム・DKが“BurNing”の代理選手としてプレーしないかと誘ってくれた。“Burning”は当時病気を患っていた。ようやくハードワークが報われたと思ったよ。中国語を学ぶために数え切れないほどの時間を勉強に費やしたから、チームメイトたちともうまくコミュニケーションが取れるようになったし、Dotaを練習するための時間も取れた。

 DKの代理選手として成功を収めたあと、チーム・CIS・ゲームがオファーをくれただでなく、キャプテンの座まで用意してくれた。チームの残りメンバーはまだまだ無名だったので、これは自分の力を証明するための大きなチャンスだと感じた。

 おれはチームに加入し、若手メンバー4人を率いてタフな中国のTI予選を戦い抜いた。おれたちが勝つなんて誰も予想していなかったが、大方の予想を覆して、おれたちはTI4の出場権を手にした。最終的にはフェーズ1のプレーオフでチーム・リキッドに敗れてしまったが、そこまで到達できたことを誇りに思った。

 T14のあと、おれの名前は知られるようになり、特に中国のゲーム界では有名人になった。それが結局、TI4で準優勝したヴィシ・ゲーミングに加入することにつながった。ヴィシ・ゲーミングのようなスター軍団に加入できるなんて名誉なことだったけど、同時に非常に高い要求が課されることは目に見えていた。

 おれはすぐさまこれまでの二倍の努力をするようになった。中国に戻って来ると、マネジャーが個人レッスンの中国語教師を付けてくれ、中国語の向上に向けて毎日2時間の学習を積んだ。最初は大変だったし、チームの高いレベルのプレーに合わせるのにも苦労した。それでも時間が経つにつれて徐々に居心地がよくなっていき、選手としても成長することができた。正直に言って、おれは当時の中国でベストのプレーヤーだったと思う。

 その年の10月、ヴィシ・ゲーミングは『ESL・ニューヨーク2014』で優勝することができた。世界の強豪相手にLANトーナメントを勝ち抜いたのは初めての経験だった。

 イーヴル・ジーニアスズとのグランドファイナルズは今でも忘れられない。おれは多くの人の予想を超える活躍をみせ、特にシリーズのゲーム3は人生でも最高のプレーをみせることができた。それは厳しい戦いだったが、おれは憑かれたようにプレーし、ヴィシ・ゲーミングを勝利へ導くことができた。その時の気持ちは言葉で表すことができない。

 EGが降参を宣言すると、おれはうれしさのあまり大声で叫んでしまった。その声は放送席まではっきりと聞こえたそうだよ。その瞬間、おれは自分が世界最高の座にふさわしいということを証明することができたんだ。

5年前

 2015年、おれたちは『Dota・アジア選手権』に出場した。賞金総額が300万ドルだったので、この大会は“ミニTI”とも呼ばれていた。グループステージで圧勝し、一度も敗れることなくグランドファイナルズへ駒を進めることができた。

 グランドファイナルズはイーヴル・ジーニアスズとの再戦だった。しかし、今回は全く歯が立たず、0-3で敗れてしまった。イーヴル・ジーニアスズは当時最高のチームだったし、結果的にはTI5も制することになるけど、彼らにこっぴどく敗れたことは、人生でも最悪の経験の一つだ。

 そのファイナルのあと、ニュービーが解散するというニュースが流れ、ヴィシはすぐさま当時中国で最高のキャリーと言われていたハオを獲得した。彼らはロスターをオール中国人にしたかったんだ。

 それがおれにとって何を意味するかは分かっていた。TIでプレーするチャンスは失われ、人生の絶頂を味わったわずか数カ月後、そのためにあらゆる犠牲を払ってきた夢が、指の間をすり抜けていくのを感じないではいられなかった。

 おれの自信は打ち砕かれ、とても暗いところへ落ちていき、そこから抜け出すには長い時間がかかった。今振り返れば、なぜそれが起きたのか理解できるが、当時は世界が崩れ落ちたような感覚だった。

4年前

 翌年、ようやくフェイスレスというチームに加入することができた。おれたちは東南アジアで好成績を挙げたが、国際大会では思うような成績を収めることはできなかった。

 おれは自分を責め続けた。VGを追われたショックを拭い去ることができておらず、精神状態もおもわしくなかった。当時下した決断の多くは、今でも後悔の種だ。おれはいいチームメイトとはいえなかったし、すぐにトップの座に戻りたいという切迫感から、チームメイトにさらなるプレーの向上を求めてしまった。

 それ以前のおれは、チームのモラルを引き上げ、メンバーを盛り上げてプレーの質を向上させるような選手だったが、当時はまるで反対だった。何事にも満足を覚えることができず、チームメイトにも限度を超えたプレーを求めてしまった。悲しいことに、この期間に“iceiceice”との関係も悪化してしまった。おれは今でもあいつのことを親友だと思ってるし、人生の恩人だと思っている。

3年前

 2017年7月、フェイスレスが解散し、おれはプロシーンから離れることになった。アナリストやキャスターとして仕事をするようになり、その新しい役割を楽しんでもいたが、常にプレー戻りたいと考えていた。そのためにはリセットするための時間が必要だったし、その数年間まとわりついて離れなかったネガティブな感情を乗り越える必要があった。

現在

 じゃあ、なんでT1をやめたのかって? それは過去10年間、精神的にも肉体的にも多くのことを乗り越えてきた結果、今の自分にとって、正しい場所にいることが最も重要だと思うようになったからだ。正しい組織の、正しいチームで、正しい機会さえあれば、おれは今でも世界最高のプレイヤーになれると確信しているんだ。

 未来に何が待ち受けているのかはわからない。もしここが終着点だとしても、それで満足だ。ほかの選手たちよりはいい競技人生を送ることができた。

 でも、まだおれの物語が終わりを迎えたわけではないということはわかっている。今はかつてないほど心の状態が安定している。専門家の助けを借りて、おれはようやく過去の出来事を乗り越えることができた。そして今回、ようやくこれまでのことを話してみようという気持ちになったんだ。

 T1を去るのはほろ苦い経験だったけど、チームに在籍した短い期間で、自分の闘志に再び火がつくのを感じた。今はこれまで感じたことがないほど、自分を証明したいという気持ちに溢れているんだ。より成熟したし、経験から多くを学び、選手としても今がベストだといえる。

 それは長く曲がりくねった道だったけど、まだその出発点に立ったに過ぎない。おれはそう思っている。